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2022 9/22

「藤沢宿」旧街道 ”令和に残る藤沢宿” 見て歩き…

「旧藤沢宿」街道は「遊行寺」東門の「遊行坂」下の「江戸見附」から台町の「伊勢山橋」を越した「京見附」までの約1,3㌔です。現在は「藤沢橋」がありますが、当時の道順は「遊行坂」を下り、現「ガソリンスタンド」手前を左折し、「遊行寺」参道の「ふじさわ宿交流館」を左折、「遊行寺橋(大鋸橋)」を渡って左折した通りが「旧藤沢宿」街道です。

< ”「藤沢宿」の成り立ち・しくみ” を解説した案内板 >

「遊行寺橋」横の「大気観測所」前の案内板に「藤沢宿の仕組み・なりたち」が掲示されていて藤沢宿を知る事が出来ます。

「旧藤沢宿」は境川を挟んだ左側が鎌倉郡(大鋸町)、右側が高座郡(大久保町、坂戸町)からなり、日本橋から12里、東海道6番目の「宿場」でした。天保14年(1843年)の記録には宿内人口4089人、家数919軒、旅籠屋45軒が繋がる「宿場町」。参勤交代制度と共に「藤沢御殿」廃止後に本陣、脇本陣,人馬継問屋(問屋場)が設けられ「小田原宿」に次ぐ規模の宿場町でした。

徳川将軍の宿泊施設「藤沢御殿」が慶長元年(1596年)に設置され、寛永11年(1634年)「藤沢御殿」廃止まで徳川3代が宿泊されました。「藤沢御殿」があった場所は「藤沢市民病院」駐車場前を流れる「白旗川」、古道・通称「北仲通り」沿いの「妙善寺」、「旧公民館」をまたがり、「御殿」の四方は水堀で囲まれ6000坪の敷地でした。現在は住宅地になっており「御殿」の様子は伺えません。

「藤沢御殿」があった場所は、手前の川「白旗川」付近から左下部分の住宅地一体で、左側に「旧藤沢公民館」の建物と煙突が見えます。「藤沢市民病院」屋上から撮影。

鎌倉郡(大鋸町)、高座郡(大久保町、坂戸町)の境の「境川」は、今は川氾濫を防ぐために川底を掘り下げ、強固な川岸になっていますが、昭和初期まで水が綺麗でとれたウナギ、アユを扱う川魚商、川水を利用した藍染を扱う藍染商で賑わい、料理屋さん「浜松楼」の「水楼船」と言う船で境川の自然な景色を眺めながらの「境川遊覧」が大人気であった、との事です。

「遊行寺橋」(旧大鋸橋)から臨む境川。川沿いの御幣(現藤が岡)一帯はヒノキ、杉の木があって、鎌倉時代からは築城等のためにこの地区の大鋸引衆によって切り出され、境川を使って腰越まで輸送された、とのことです。相州麦等農作物等々の輸送にも使われました。また「遊行寺」橋には「江ノ島一の鳥居」があって多くの人で賑わいました。その風景は多くの「浮世絵」に描かれている賑わいのある「宿場町」でした。

鎌倉時代には神社仏閣建築材として「御幣山」から切り出された木材が大正橋付近から船で運搬され、海の安全を祈った「船玉神社」が祀られています。

震災、何度かの大火等の自然災害によって、また社会・経済の環境変化によって、お蔵や店蔵の保有者のご尽力によって僅かに残る当時を偲ぶ店蔵が残る「まち姿」に変わり、歴史を刻んできた「蔵のまち」から集合住宅、戸建て住宅、空地、駐車場が目に付く「まち姿」に変貌してきました。

江戸時代から賑わってきた「旧東海道」。「遊行寺」東門前付近から「京見附」に延びる街道には歴史を刻んだ店蔵、震災後の建物、江戸時代の特徴である「まち割り」(間口狭く奥行き深い建物の造り)の建物の様子や「まち割り」の面影残す敷地の様子が見られます。歩道には当時の建物等の写真をラッピングした22基の「トランスボックス」からは当時の歴史を知る事が出来ます。

街道際には明治、大正、昭和初期の建物が残されております。

「遊行寺橋」付近から「白旗」付近までの石畳風の歩道は「藤沢宿」らしさを醸した歩道です。歩道際には僅かになりましたが明治時代、昭和初期の建物が見られます。歩道から繋がる石畳風の路地を入ると神社仏閣があります。こうした「旧藤沢宿」街道「見て歩き」をお楽しみ下さい。

 

<「関次商店」さん>                                                                                                                                                                                                     「関次商店」は初代当主が千葉県野田の茂木家(「亀甲萬」ー「現・キッコーマン」)で修行したのち明治6年現在地に米穀肥料商として創業、当地方の特産「相州小麦」を茂木家に仲介し、肥料等を生産農家に販売していたとの事です。

肥料蔵の全景で、お蔵を利用したお店(パン屋さん、花屋さん)は多くの皆さんから好評です。

明治6年創業の「関次商店」の蔵は明治19年築の「穀物蔵」、明治40年築の「肥料蔵」をそのまま利活用して「パン屋」さん、最近では「生き花屋」さんがオープンしました。現4代当主は「テナントが入って頂いて、先祖代々の歴史ある大切な蔵を守る事ができ、皆さんに当時のお蔵の特徴を知って頂く事もできて大変に嬉しい。お店に寄ってお買いものしながら当時のお蔵の姿や地域の歴史に触れて下さい」とのお話。高さ5メートル、太い木材の小屋組み、むき出しの壁などをご覧ください。街道際には赤い色したお蔵「文庫蔵」(明治42年築)姿が見られます。

<「旧石曽根商店」さん>                                                                      明治40年創業、大正12年の震災後現地に移築。履物製造・問屋として多くの職人が自転車で鎌倉、三浦方面等広範囲に亘って小売商、雑貨商等訪問し履物を卸していた、との事です。

イべント時には当時の履きのも資材等が店内に綺麗に陳列され、ご家族皆さんで説明して下さっています。

カーテン越しには当時繁栄していた履物屋さんの様子が見られ、イベント時には当時の店内の様子や当時の道具、大福帳など大切に保管されている貴重な書類等々も見学することが出来ます。また正面には震災時の復興支援を感謝する金子町長からのお礼状が飾られています。

「関東大震災」復旧にあたって石曽根さんの奉仕を労う金子町長からの感謝状。悲惨な震災の状況が詳細に記されていて歴史を語る貴重な感謝状。

<「旧稲元屋」さん>                                                                         「旧稲元屋」さんは茶、洋紙、呉服を扱う大店で、昭和52年の火災で街道に面した母屋兼店舗が焼失し、二つのお蔵を残すのみになりましたが、明治天皇が行幸された際に宿泊され、裏山には明治天皇宿泊の刻んだ石碑、路沿いには本店所在地を標す石柱が建っています。家訓は「質素と誠実」を掲げて稲元屋の礎を築きました。

街道に面して母屋・店舗があった「旧稲元屋」さんは昭和52年の火災で焼失して仕舞ましたが、二つの蔵(「一番館」と「内蔵」、中庭が現存します。裏山には「記念碑」が建立されいるのが見れます。

街道際には記念石塔が立てられています。この場所は「旧稲元屋」さんの母屋・店舗があった場所で「旧東海道」際に立てられている石碑。ここに「旧稲元屋」さんの本店があり、明治天皇が行在所された記念に立てられました。「明治24年亀井野陸軍大演習天覧のため御在所となった。町民の意気発揚のため皇紀2千6百年(昭和15年)建立」と刻まれています。マンションの裏には二つの蔵、裏山の竹林の中に記念碑が伺えます。

<「旧桔梗屋」さん>                                                                      「旧桔梗屋」さんは江戸時代から茶、洋紙問屋として藤沢を代表する旧家で、藤沢宿に唯一残された店家でしたが2年前に営業を終え、店蔵は市に寄贈されました。店蔵施設の耐震等の保全作業が終了後には、帳場に続く和室、手入れされた裏庭など商家の姿を伝えたり、藤沢宿のまちの歴史を語る「藤沢宿語り館」としての機能を持たせた利活用を期待したいと思います。

文久元年(1861年)築の文庫蔵、明治43年(1843年)築の店蔵・母屋。黒漆喰、出桁づくり、観音開き窓と言う店蔵は幕末から明治に江戸から広まり、川越や佐原、栃木と同じ様に藤沢も蔵のまちでした。

<「旧鎌田商店」さん>                                                                        明治30年築の旧鎌田商店蔵、関東大震災にも耐えた藤沢最大級の木造石造りの蔵。明治から昭和初期にかけて肥料商や麦・米穀等の集荷商が集中したまちで、藤沢の姿を伝える貴重な存在です。現在保有者によって建物修繕工事がされています。

お蔵は明治30年米穀・肥料の保管庫として建てられた木骨石造りで関東大震災にも耐え、明治から昭和初期にかけて旧高座郡の中心として、周辺農村が必要とする肥料商や米穀の集荷商が集中したこの地の藤沢の姿を伝える貴重なお蔵と言えます。

<「内田商店」さん><茶舗「みつはし園」さん>                                                               「内田商店」さんは江戸時代には指物師(さしものし)屋さんとして、明治には銅銭問屋さんとして、「みつはし園」さんは明治42年創業のお茶屋さん。2軒とも切妻、出桁づくりの歴史を語る建物です。

「旧藤沢宿」街道は歴史ある明治・大正・昭和初期の建物が年々姿を消しきている中で、当時の特徴的建物ー切妻、出し桁造りと言う建物ーを残す特徴ある「まち姿」が見らる貴重な場所です。

「領家」地区(白旗交差点近く)には歴史ある「小林商店」さん、「茶舗・わたや」さんはじめ震災後や昭和初期時代の面影残す建物、お蔵など歴史を刻んだ建物が見られます。

お店の横、裏にはお蔵が見える家並み。

その他、街道には嘉永2年創業「和菓子の豊島屋本店」さん、飯盛り女供養墓でお馴染みの旅籠小松屋(小松屋源蔵)のご子孫が旅籠があった場所で営む「ラーメン・小松屋」さん、広文堂で知られる「さんこうどう」さん、人形の「福田屋」さん等々が見受けられます。

<今残るお蔵等を廻り旧藤沢宿の面影を…>                                              市広報TV番組で「令和に残る藤沢宿の記録」と題して「旧藤沢宿」の残された建物が放送されました。

市広報番組 2022年8月放送 「令和に残る藤沢宿の記録-旧東海道今昔散歩」                              以下URLからご覧ください ↓

https://www.youtube.com/watch?v=MD0gquxz1a0

 

<「旧藤沢宿」街道際には当時のまち姿をラッピングした「トランスボックス」>

「旧藤沢宿」の特徴は旧東海道(現467号線)、並行しての北仲通り、と二本の道には神社仏閣が存在しますが、藤沢橋ー白旗交差点までの道路には当時のこの地の懐かしい写真がラッピングされた22基の「トランスボックス」があります。通行する人に注意しながら「トランスボックス」の写真を見て当時の「まち姿」を見て下さい。

藤沢橋から白旗間の「旧藤沢宿」は江戸時代は「藤沢御殿」「本陣」「旅籠」等が、明治から昭和初期にかけては市の発祥地として官庁街、肥料商で賑わったまちでした。社会環境、経済環境の変化と共にまち姿は変わりました。「トランスボックス」には賑わった当時の面影を写真ラッピングされています。

藤沢橋~白旗間には明治からのまちの様子がラッピングされています。当時の懐かしい建物や東海道分間延絵図が22基の「トランスボックス」に写真ラッピングされていて「まちなか博物館」と評判です。

<現「南消防署本町消防出張所」のところに「藤沢警察署」の庁舎が建っていました>

明治5年邏卒と言って今の警察の前身が常光寺境内にありましたが、大正14年に現「南消防署本町出張所」のところに近代的な洋風の警察署が建てられました。その後昭和39年に「現藤沢警察署」のある鵠沼に移転するまでこの地は藤沢警察署発祥の地でした。警察所庁舎は鵠沼に移転後に解体され、現在の「南消防署本町出張所」が建設され、昭和43年に開所し、現在に至っています。こうした当時の警察署の建物姿を歩道際の「トランスボックス」から見る事が出来ます。その他官庁街であったこの地の懐かしい建物や街道の風景等が街道際の「トランスボックス」に写真ラッピングされていて、当時の「まち姿」と現在の「まち姿」が比較できます。是非ご覧ください。

東海道6番目の宿場町として栄え、行政の拠点とし、明治11年高座郡役所、大正5年藤沢町役場設置、昭和15年市制発足した際には市役所存在地区として官庁街を形成し、あわせて地の利を生かした米穀肥料商や日用品を扱う各種の大店で賑わう町でしたが、まちの賑わいは明治明治20年藤沢停車場開設に伴って店舗、旅館等々は藤沢宿から移り、昭和26年に市役所が朝日町に移転すると共にまちの賑わいは都心部に移り旧藤沢宿の様子が変わってきました。そうした移り変わりのまちの様子が「トランスボックス」から見る事が出来ます。

「トランスボックス」を紹介した「歩いて見よう 藤沢宿」 冊子を片手に街道を歩いてみてください。「ふじさわ宿交流館」、「JR藤沢駅」、「藤沢公民館」に備えております。

「歩いて見よう 藤沢宿」をクリックして「冊子」ご覧ください

歩いて見よう藤沢宿

江戸時代から市の発祥地として歴史を歩んできた「旧藤沢宿」街道の歴史をお楽しみ下さい。”市TV広報番組「情報なび」”、「藤沢宿冊子」をクリックして見て下さい。

 

「関次商店」お蔵以外の施設はイベント時以外の平素は非公開ですのでご注して下さい。

藤沢宿 ”わくわく藤沢宿通信” №56

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