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2021 1/21

藤沢宿 横道通りに祀られている「日枝神社」

「旧東海道」と並行した横道(通称「北仲通り」と呼ばれている古道)を歩くと、街道沿いに僅かになりましたが歴史ある店蔵が見られる「旧藤沢宿」通り(現467号線)と違った歴史を感じる趣のある道です。この道は「旧東海道」が出来る前からの通りで、戸塚宿方面から「遊行寺」坂上辺りから「遊行寺」に沿った道を経由して西富に下り、境川に掛かる「御殿橋」を渡って八王子や大山に繋がる唯一の道でした。

(「御殿橋」に掲げられている江戸時代の宿場絵図)

「御殿橋」を過ぎ一本目の十字路を右折すると「旧藤沢公館」の建物や住宅街に出ます。この辺りに「藤沢御殿」がありました。「旧藤沢公民館」の脇道を進むと「日枝神社」という赤いお社に出てきます。

お社のあるこの辺りは徳川家康の街道政策によって設置された「藤沢御殿」がありました。「藤沢御殿」は将軍が宿泊する施設で、慶長元年(1596年)から寛永11年(1634年)までの間に徳川3代(徳川家康、徳川秀忠、徳川家光)が28回利用しました。

「藤沢御殿」地内には「山王権現社」として「山王神社」が祀られ、別名「日枝神社」とも言われたお社で、「藤沢御殿」廃止によって「御殿地」内にあった「山王権現社」は坂戸町の山の移されましたが、家康の徳を慕った地域住民によってこの場所に「日枝神社」の社を設けられたとのことです。「日枝神社」として祀る「御社」を建て、その後「御殿地」の周りは田や畑で、その中に祀られていた「稲荷神社」、「八坂神社」もあわせて祀らたとのことです。

(「日枝神社」社)

 

「稲荷神社」は常陸の「笠間神社」から招請、稲の神様として五穀豊穣を、「八坂神社」は「京都八坂神社」から国内各地に祀られ、全ての願い事が叶えられる神社とも言われています。「御殿地」まわりの「平野町町内会」や「陣屋小路町内会」の皆さんによって管理されています。

「山王神社」は藤沢宿の総鎮守として白旗交差点近くの「山王山」に遷座されましたが、藤沢最初の教育施設として、大正14年に「藤澤町立実科高等女学校」設立に伴い「白旗神社」に移転合祀されました。現在この山は「セキュレアシティー翼の丘」として開発された住宅街になっています。この住宅街の一角に「実科高等女学校」の後に設立された「県立藤沢高校」の創立80年記念碑(当時の山王山の様子や学校の経緯が記されています)が移設保存され歴史が語られています(2010年「県立藤沢高校」は「県立大清水高校」と統合し「県立藤沢清流高校」となりました)。

(「藤沢高校創立80年記念碑」や「藤沢高校校歌」碑)(「セキュレアシティー翼の丘」)

「藤沢高校創立80年記念碑」には「藤澤実科女学校」設立経緯や敷地の山王山周辺等地区内の様子、また山王山には「釣鐘堂」があって堂主が「時の鐘」を撞いていた等々記され当時の様子を知ることができます。「時の鐘」を撞いていた「釣鐘堂」は近くの「伊勢山」に移され「時の鐘」の役割を果たしてきましたが、鐘は戦中の銅鉄回収政策のよって拠出され、「御堂」のみが残っています。

(伊勢山公園に移設された「鐘撞堂」)

(「藤沢市民病院」前の元バス停フェンスには「藤沢御殿」等の絵図が掲示されています)

元バス停の真裏側に「藤沢御殿」のあった「御殿地」で、このフェンスには「藤沢御殿」の見取り図や周辺の様子が掲示されていて、「白旗神社」や「市民病院」へお越しの際に是非立ち寄ってご覧頂ければと思います。。

「コロナ」ウイルスが収束したら、徳川将軍が利用した「藤沢御殿」地に纏わる「日枝神社」をお参りしたり、「山王神社」跡などの歴史を探るのも良いでしょう。

藤沢宿「わくわく藤沢宿通信」№29

 

 

 

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