中国から始まったと言われる「新型コロナ」ウイルス対応で日常生活が一変し、感染しない、感染させない、マスク着用とともに「3密」行動と「新型コロナ」ウイルス回避の新しい生活が続いています。
天然痘、あるいは疱瘡は、飛沫や接触によってうつる感染症で発熱・頭痛・発疹をともない亡くなる場合も多い伝染病で、現在では天然痘の予防ワクチンが普及されこの病気に恐れることは無くなりましたが、江戸時代には「はしか」「水疱瘡」と並んで、大人や子供の命を奪う病気として恐れられていました。ワクチンの無い時代にこうした感染症対策として多くの人が恐ろしい病魔から命を守る神社での厄払い祈祷をしていました。
その一つ、旧東海道の脇道を進むと「厄神社」が祀られているところに御社に…
御社は明治17年、川崎大師から分神し、ご祭神は厄神鬼王(疫病除けの神)。神殿は明治24年、石灯篭は明治29年、鳥居は明治34年、手水舎は明治34年に建立されました。
明治15,16年この地でも疫病(天然痘)大流行したことから、神社所在地の入町、仲久保町、旅籠町の有志により疫病除けを祈願して祀られました。その後、入町厄神社世話人会を結成し御社管理をされています(会長:工藤之通さん、会長代行:工藤宜子さん)。
入町、仲久保町、旅籠町は江戸時代の宿場の中心地、明治10年頃の人口は6214人、家数は1249軒と言われ、明治以降は藤澤町役場のある市の中心地でした。
「厄神社」例祭は毎年4月第4日曜日、月曜日に執り行われ、例祭初日は「諏訪神社」宮司による厄払い祈祷が営まれます。「お払いを受けたお札を飾られたお宅には病人が出なかった」「昭和の戦時中にはお参りして出征された」と言われています(工藤宜子代行)。
旧藤沢宿の特徴として「旧東海道」(現467号線)歩道から石畳仕様の通路を進むと神社仏閣に着くことができます。「厄神社」には藤沢橋から白旗に向かって一つ目の信号脇(旧石曽根商店脇)の石畳仕様通路を進みます。
工藤家の門。昭和35年建築された冠木門。二本の柱の上に冠木を貫き通して屋根を掛けた豪奢な門が見られます。
お庭には芙蓉が咲きクロアゲハが蜜を吸っていました。
「厄神社」入り口脇の階段を上ると左側に「庚申塔」群が祀られています。
更に階段を上ると緑いっぱいの山頂に。
旧藤沢宿の特徴は、大昔は相模湾は現在の藤沢宿辺りまで打ち寄せていて、その後海岸が後退すると砂丘と砂州ができ、相模野台地と相模湾によってできた砂丘の狭間を這うように旧藤沢宿の「町割」ができました。そうした特徴を残す「厄神社」が祀られている山際の場所です。
「厄神社」には「ふじさわ宿交流館」から徒歩5分です。
藤沢宿 ”わくわく藤沢宿通信” №22
Copyright © 2019 藤沢市ふじさわ宿交流館 All rights reserved.