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清浄光寺(遊行寺)

しょうじょうこうじ(ゆぎょうじ)

いろは坂を登り切って山門跡に立つと、遊行寺(清浄光寺)の広々とした境内が見渡せます。正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしました。これが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)となった時宗の総本山です。宗祖一遍上人は念仏を勧める賦算(「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記したお礼を配ること)と信仰の喜びを踊りであらわす踊り念仏で、みなことごとく往生安楽の境地へ至ることができると説いて諸国を遍歴しました。それにならって歴代の上人も遊行を続けたので遊行上人と呼ばれ、当寺も遊行寺の名で通るようになりました。本堂に向かって左側の鐘楼には、延文元年(1356)の銘を持つ県指定文化財の梵鐘が吊られています。この梵鐘は、呑海によって創建されてから約三十年後の遊行八代渡船上人の代に、仏殿造営の総仕上げとして鋳造されたものです。その頃の遊行寺は開山以来の隆盛を誇り、南北朝の激しい戦乱の時代に、人々の幸福と平和への願いがこめられてこの鐘が造られたといってよいでしょう。

応永二十三年(1416)、上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に対して乱を起こし、その戦火は関東一円に及びとりわけ藤沢をおびやかしました。戦乱後、遊行上人は時宗の人々と共に、敵味方の区別なく多数の将兵や軍馬の遺骸を収容し、手厚く葬りました。三周忌にあたる応永二十五年に建てられた供養塔が、境内東門近くに残る国指定史跡・敵味方供養塔です。

境内中央にある市指定天然記念物の大イチョウは、数本の乳状突起をもつ古木です。古くは「屏風をたて並べたようだ」(『更級日記』)といわれた西富の丘で、長い年月に渡って藤沢の町の移り変わりを見つめ、そこに生きた人々の喜怒哀楽を美しい秋の黄葉に包み、なお悠然とかまえています。

また、当寺には国の重要文化財にも指定されている後醍醐天皇画像、一向上人画像、時宗過去帳、六時居讃、安食問答などをはじめとした多くの寺宝が伝わり、宝物館に安置されています。

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住所:藤沢市西富1-8-1

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